はこさき処

ただのブログです~

※バレあり シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 見ました

シン・エヴァンゲリオンを観ました。ネタバレありでざっくりと感想を書いていこうと思います。私はそんなにエヴァに詳しいわけではないので、間違ったことを書いていたり、適当なことを書いていたらすみません。考察ではないので、作品を見たひとりの感想として楽しんでいただければ幸いです。

はじめに

今日シン・エヴァンゲリオンを観ました。公開からおよそ2週間の時間が経ったにも関わらず、ネタバレをほぼ見ることなく鑑賞できたのは本当に良かったと思っています。作品の重要なシーンだけでなく、些細な感想さえネタバレになりかねない難しい作品ですが、ネット上ではうまいこと確信を避けながら話題にされている印象があり、とても感心します。私がネタバレに合わなかったのも、こういったネット上(Twitter上)でネタバレへの配慮があったおかげなのですが、エヴァの作品としての重み、ネタバレなしで見てほしいというファンの配慮を感じる出来事だと感じました。あと、単純にネタバレが難しい(Twitterの140文字の制限で感想を書くのが難しい)という作品の性質もあったのかなと思います。

もしあなたが未見の状態でこのブログを見ているとしたら、本当に、ブラウザを閉じて劇場に足を運ぶことをお勧めします。

感想を書く理由

繰り返しになりますが、私はこの作品を見ることができて、とてもよかったと思っています。私はこの作品が素晴らしいものだと感じましたが、それ以上に得るものがありました。エヴァは元々見る人によって解釈が分かれるような作品だと思っていますが、本作はそういう面が強いというか、「これを見てどう思ったか」がとても重要な作品なのではないかな、と感じたのです。なので、私は感想を書くことにしました。

個人的な意見ですが、私自身はエヴァの感想を純粋に作品の良し悪しとして評するのが難しいと思っています。中学1年という多感な時期に出会ってしまったという点もさることながら、そのあと15年以上も付き合いがあるのでどうしてもその時々の思いが入ってしまいます。そして、また作品を見るときもキャラクターと自分とをオーバーラップしてみてしまう部分があり、純粋にあの世界の出来事のみを語ることが難しいのかな、と思います。いざ感想を書いてみると、作品のシーンと自分の考えと妄想が織り交ぜられた感想文になってしまいましたが、少しでも共感してもらえるところがあれば嬉しいな、と思っています。

シンの違和感

シン・エヴァンゲリオンはパリ市街地を舞台とした戦闘から幕を開けます。このシーンは、ヴィレの活動が説明される象徴的なシーンかなと思います。そのあと、村が出てきてびっくりするわけですが、村での生活も鈴原や相田からわかりやすく説明がありますし、なんというか、親切だなというのが第一印象でした。 2時間半を超えるボリュームで公開から話題になっていましたが、これまでの広げた風呂敷を順番に畳んでいくわけなので、時間がかかるのも納得です。

相補性というキーワード

エヴァはATフィールドや人類補完計画といったキーワードに象徴されるように、他者との関係をテーマにしていた作品です。他者との関係の中でも、これまではとりわけ孤独感であったり、人との関わりによる苦悩が描かれていましたが、今作は少し違ったように思います。周りの助けを借りながらも精神的に成長したシンジの行動は、独りよがりを抜け出して、周り(ヴィレのメンバー)と支えあうことができました。そして、父ゲンドウとの対話によって物語は収束へと向かいます。シンジとの対話によってゲンドウが気づきを得るシーンは、今までATフィールドを壊すことでしか人類は分かり合えないと思っていたゲンドウの意識を変えていきます。そして、他者を拒むATフィールドの対となる概念として、相補性というキーワードが出てきます。ATフィールドを溶かし、自他の境界をなくすことで人類を補完しようとしたゲンドウに対して、シンジとヴィレは、人類は既に支えあうことができる、そういうメッセージを伝えているように感じました。

人は支えあって生きていくものだ、とはよく言われますが、私は28年生きてきてその意味がよく分かりませんでした。時には人を避け、自分だけがつらいようにふるまったり、あるいは他者を避けることが自分にとって最善であると考えるような行動がありました。ふさぎ込むシンジのほっといてほしいという気持ち、ゲンドウの孤独への苦しみが、他人のものとは思えませんでした。ですが、本作で描かれているのは、孤独ではありません。村で生きていく中でネルフから独立した自分を見つけ出す綾波綾波との関係を経て人とのつながりを取り戻すシンジなど、作中の人物は互いを見て、影響しあうことで物語は進みました。私は、そういった関係の変化を見て、他者を尊重して助け合うことの本当の意味が初めて分かったように思います。

Qまでのエヴァでは、登場人物は皆好き勝手行動して(というと極端ですが)他人を頼ることはなく、またそれ故に対話も少なかったように思います。また、作品としてもあえて重要な説明を避けるような作りで、ある種、わかる奴だけついてこいというような気概さえ感じるような作品でした。しかし、そういった作風が多くの考察の余地を生み、話題となっていきました。作品として説明されない部分を、ファンが補完していく楽しみがありました。

私はエヴァを見るときに、登場人物に自己投影をしてしまったり、自分と似ているところを探して、自分を考えてしまいます。別に詳しくもなんともない人間ですが、あれはどうなっているのか、あのときのシンジに私はそっくりだ、などの考えることも楽しいことだったと思います。ですが、それと同じくらい、考察のブログを読んだり、人とあーだこーだと話し合うことが楽しい作品でした。

話は少しそれますが、シンでは、イマジナリーエヴァンゲリオンなど、虚構と現実を意識させるような表現がありました。このような虚構対現実の構図は、シン・ゴジラのキャッチコピーとしても記憶に新しいところだと思います。シン・ゴジラでは架空の存在であるゴジラに対して、現実の日本(世界)が立ち向かうという構図でしたが、エヴァンゲリオンではとてもメタ的なニュアンスで使われていたように思います。終盤のキャラデザが戻る演出や、原画?が出てくる波のシーンなど、視聴者が居る現実とシンジが存在するアニメの世界を意識させる演出が印象深かったです。相補という視点で考えると、こういったメタ的な演出は、現実と虚構が相補の関係にあるというメッセージなのかなと感じました。子供という現実から逃げて虚構の中にユイを探したゲンドウと、現実を受け入れて進んでいくシンジの対比など、そういった構図を意識する場面が多かったように思います。

エヴァは孤独がテーマだったのか?

私は今作を見て、肩の力が抜けるような感覚を覚えました。本作のシンジは、村での生活や綾波とのコミュニケーションの中で成長して、周りが見えるようになる。今まではみんなから責められるのが怖くて何もできなかったシンジが、ヴィレに戻って、責められたりもしたけど、みんなからよくやってるよって、ありがとうって言ってもらえている。そんな状況を見ていて、涙が出そうになりました。一人では見えない景色、他人とのつながりを怖がっていたらわからない相手の感情があるということを改めて気づかせてくれました。鈴原妹のシーンも強烈で、彼女はシンジに対して恨みと感謝と傷ついてほしくないという一見相反する感情を抱いていることを明かします。Qでエヴァにだけは乗らんといてくださいといった彼女は、シンジを恨んでいる、責めているように見えますが、実際には感謝している気持ちも、シンジにこれ以上無理してほしくないという感情も持っていました。でもこれはシンジがヴィレに戻ったからわかったことです。

ゲンドウとの対話に挑むシンジは、自分の弱さを認めて、他人を認めることができる人間へと成長していました。ゲンドウをはじめ、アスカ、カヲル、綾波といったエヴァパイロットたちもシンジとの対話によって自分を認めて、現実へと戻っていきます。これまでシンジを引っ張っていたパイロットたちが、今度はシンジに支えられる番になる、相補的に生きていくということを象徴しているシーンだと思います。

ここからは妄想になりますが、こういった描写は現在の行き過ぎた個人主義へのアンチテーゼとも捉えられるのかな、と思いました。日本の情勢はこの25年で大きく変わっています。バブル期以前のみんなで頑張ろうという風潮から、個人の責任が問われる風潮へと移り変わり、今では自己責任や自己防衛といった言葉が当たり前の社会になりました。生活が豊かになったことで、一人で生きていくことが難しくなくなったこともあり、他人を必要とする場面が少なくなったというようなこともあるのかもしれません。実際私も、自分勝手に生きているようなところがあり、他人とのつながりが薄くなっていることを感じて、一人で生きているように錯覚していました。でも結局のところ、人は一人では生きられません。行き過ぎた個人主義の中では他人に頼ることが難しく、人に迷惑をかけないように、息苦しさを感じながら生きていくことになると思います。本作のシンジの行動は、そういった個人主義を立ち返り、互いに支えあうことで苦しみを和らげることができるのだ、と言っているような気がしました。ここまで妄想でした。

シンジとゲンドウのコントラストが印象的な今作ですが、メタな捉え方をすれば、どちらかが視聴者で、もう一方が庵野監督のような気がしています。「エヴァのない世界に生きるよ」と言ったシンジが、エヴァから卒業していったかつての私たちなのか、あるいはエヴァという大作の幕を下ろした庵野監督自身なのか、その解釈は人によって違うかもしれません。私としては、25年もの間シンジをエヴァに乗せさせた視聴者こそ碇ゲンドウだったのかな、なんて考えています。また、年を取るとうまくいかないことが多くなって、最近は「過去をやり直したら」という妄想をすることが多くなりました。自分のそういった面も、ゲンドウのイマジナリーによって世界を書き換えようとした感情は重なる部分があります、だからこそ、現実から逃げていたせいでユイを見つけられなかったという描写は刺さるものがありました。そして、現実を突きつけてきた碇シンジが最後にああいった(幸せな?)結末を迎えられたことこそが、私に現実と向き合う勇気をくれたかなと思います。

気になった点としては、最後のシーンで綾波、カヲル、マリ、シンジは出てきますが、アスカってどうなったんですか?見逃しただけ…?と心配になりました。本当に見逃しただけなの?

そして、本作は感想を書くのが大変難しかったです。

  • 全体的に情報量多すぎて感想を書いているうちに情報が頭からこぼれ落ちていく
  • 感想見返してみたけど最後の方しか書けてない
  • 一気に感想を書くととても大変なので、友達とわーわー言いながら見たい

時間が足りなくて、文章として詰め切れなかった部分も多かったですが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。

あと、これは全然関係ないのですが、久しぶりに映画館で映画を見たら肩こりが直りました。正しい姿勢で3時間弱座ってたから、それがよかったんだと思います。この感想をかくためにラップトップをいじったら、さっそく肩こりが再発しました。肩が痛い奴は映画館でエヴァを見ろ!

(追記)最後書くの忘れてました。すべてのエヴァンゲリオンに、ありがとうを込めて。

おわり